2010年 05月 18日
朱雀の将軍 2
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「天の力を返して、ただの人間の王になったらしい。お前はこれから、ただの王の側で、一緒に額に汗して働くんだ。」
膝をついた王は、そう言って笑った。
「いいな?」
答えるかわりに、スジニの目を涙が一杯に満たした。王は一言を言うにも息が切れ、肩口から血が流れ出した。アジクをその場に寝かせると、スジニは自分の服を裂いて、王の腕になんとか巻き付けたのだった。
***
宮の回廊を歩きながら、スジニは人を捜していた。
「皆どこで油を売ってるんだか…」
三神が天に帰ったというが、神器の守り主であった皆はどう感じたのか—聞いてみたいと思った。朱雀の紅玉を握りしめたことを思い出す。帰還してからというもの、怪我も直らないうちから軍事に明け暮れ、あげくに皆が将軍という職に収まってしまったので、昔のように顔をつきあわせて話すことがなくなっている。陽のあるうちは一体誰がどこにいるのやらわからない。時間は惜しいが人に尋ねるのも億劫で、スジニは当てずっぽうに歩いた。人に尋ねれば将軍の命令となって、受けた者がとんでいく。明日の訓練のことで誰かが朱雀将軍を探しているかもしれないが、それは今は忘れることにした。
回廊の向こうから大勢の足音がする。これはまずいと思った瞬間、王と随行の一団に鉢合わせた。チュムチにでもやろうかと酒瓶をぶらさげたスジニは、先頭に立つ王の正面に立つ事になった。
「朱雀の将軍が昼間から酒を抱えてどうした。遊び相手がなくて困っているのか。」
随行の一団が笑いをこらえた。王が朱雀将軍に軽口をきくのはすっかり宮の慰めになっていた。なにより王がそれを楽しんでいる様子なので、スジニはそれに応えることにした。
「遊んでもらえないものですから、このままふて腐れて次の戦まで寝ていることにします。」
「アジクにでも遊んでもらえ。叔母さんがまた飲むようになって太子は何と言っている?それに戦、戦と言うな。避けるために苦労している。」
王がにやにやと笑う。暗黙の了解でスジニはアジクの養育を担っていた。
「お前が飲んでいるのは世が平和な証拠だな。」
こらえきれず一行から笑いが漏れた。
「お体はいかがですか。」
王は絹衣の下で、まだ左手を吊っている。厚く巻かれた包帯が感じられた。
「悪くない。また腕が上げられるようになるそうだ。お前の方こそどうなんだ?」
癒え始めてはいたが、まだほんとうの握力は戻らない。そうか、癒えるのに時間がかかっている―。以前のスジニだったら、すべてが一晩で直っただろう。
「弓手の新しい鍛錬を考えていますから、近々お目にかけます。」
合点がいったように首を振りながら、 関係のない事を答えて一礼するとスジニは御前を去った。
練兵場でようやくチョロを見つけたスジニは、脇の小さな木立に引っ張り込んで傍らに座った。槍を置いて薄く微笑むチョロは、いつものように無言でスジニの言葉を待っている。いきなり事の顛末を聞くのは憚られるような気がした。どのように切り出したものか、糸口に困って酒を差し出してみると、チョロは少し躊躇った後、口をつけてむせ込んだ。
「なんだ、飲むようになったのかと思った。嫌なら無理して飲まなくてもいいのに。」
「何も変わらないな。」
酒瓶を押し返しながらぼそりと呟くチョロに、スジニは聞き返した。
「何も?」
「戦場で気を失って帰還できたのは不思議だが。」
「気を失ったの?」
「よくはわからないが、急に力が抜けて、少しの間よく覚えていない。」
姉に炎を合わせた自分は、正気を失うことなく朱雀の力を使ったが、紅玉が失われた瞬間は覚えていない。王様は天に力を返したとおっしゃった。人間の王になったと。自分はそのような確信が得られないまま戻って来たような気がした。
「三神は、もともと天から遣わされた。だから天に還ったのだな。朱雀は地にあった力だ。元々、ファヌン様の父上が先んじて人に与えられた。だから地に治まったと見えたが、どうだろう。朱雀の片割れであるお前の姉が天に上がり、人というものを伝えた。それから身を以て火の力を地に封じたというのは、できすぎた話だろうか。」
ヒョンゴはちゃっかりと酒瓶を抱えて座り込んだ。この師匠の気配に気がつかないなんて、どうかしている。
「気を失ったのですか。」
ヒョンゴは改まった調子でチョロに話しかけた。
「私はいたるところが急に痛んで、おお、ついに敵に斬られたと死を恐れました。しかしまた目を開いた。真っ白な嵐を見て、これがあの世かと思ったが、ハハどうも違っていたようです。」
朱雀の片割れー
「傷が直らないうちは、あまり飲むな。」
初めて聞くチョロの声音に、スジニは驚いて顔をあげた。
膝をついた王は、そう言って笑った。
「いいな?」
答えるかわりに、スジニの目を涙が一杯に満たした。王は一言を言うにも息が切れ、肩口から血が流れ出した。アジクをその場に寝かせると、スジニは自分の服を裂いて、王の腕になんとか巻き付けたのだった。
***
宮の回廊を歩きながら、スジニは人を捜していた。
「皆どこで油を売ってるんだか…」
三神が天に帰ったというが、神器の守り主であった皆はどう感じたのか—聞いてみたいと思った。朱雀の紅玉を握りしめたことを思い出す。帰還してからというもの、怪我も直らないうちから軍事に明け暮れ、あげくに皆が将軍という職に収まってしまったので、昔のように顔をつきあわせて話すことがなくなっている。陽のあるうちは一体誰がどこにいるのやらわからない。時間は惜しいが人に尋ねるのも億劫で、スジニは当てずっぽうに歩いた。人に尋ねれば将軍の命令となって、受けた者がとんでいく。明日の訓練のことで誰かが朱雀将軍を探しているかもしれないが、それは今は忘れることにした。
回廊の向こうから大勢の足音がする。これはまずいと思った瞬間、王と随行の一団に鉢合わせた。チュムチにでもやろうかと酒瓶をぶらさげたスジニは、先頭に立つ王の正面に立つ事になった。
「朱雀の将軍が昼間から酒を抱えてどうした。遊び相手がなくて困っているのか。」
随行の一団が笑いをこらえた。王が朱雀将軍に軽口をきくのはすっかり宮の慰めになっていた。なにより王がそれを楽しんでいる様子なので、スジニはそれに応えることにした。
「遊んでもらえないものですから、このままふて腐れて次の戦まで寝ていることにします。」
「アジクにでも遊んでもらえ。叔母さんがまた飲むようになって太子は何と言っている?それに戦、戦と言うな。避けるために苦労している。」
王がにやにやと笑う。暗黙の了解でスジニはアジクの養育を担っていた。
「お前が飲んでいるのは世が平和な証拠だな。」
こらえきれず一行から笑いが漏れた。
「お体はいかがですか。」
王は絹衣の下で、まだ左手を吊っている。厚く巻かれた包帯が感じられた。
「悪くない。また腕が上げられるようになるそうだ。お前の方こそどうなんだ?」
癒え始めてはいたが、まだほんとうの握力は戻らない。そうか、癒えるのに時間がかかっている―。以前のスジニだったら、すべてが一晩で直っただろう。
「弓手の新しい鍛錬を考えていますから、近々お目にかけます。」
合点がいったように首を振りながら、 関係のない事を答えて一礼するとスジニは御前を去った。
練兵場でようやくチョロを見つけたスジニは、脇の小さな木立に引っ張り込んで傍らに座った。槍を置いて薄く微笑むチョロは、いつものように無言でスジニの言葉を待っている。いきなり事の顛末を聞くのは憚られるような気がした。どのように切り出したものか、糸口に困って酒を差し出してみると、チョロは少し躊躇った後、口をつけてむせ込んだ。
「なんだ、飲むようになったのかと思った。嫌なら無理して飲まなくてもいいのに。」
「何も変わらないな。」
酒瓶を押し返しながらぼそりと呟くチョロに、スジニは聞き返した。
「何も?」
「戦場で気を失って帰還できたのは不思議だが。」
「気を失ったの?」
「よくはわからないが、急に力が抜けて、少しの間よく覚えていない。」
姉に炎を合わせた自分は、正気を失うことなく朱雀の力を使ったが、紅玉が失われた瞬間は覚えていない。王様は天に力を返したとおっしゃった。人間の王になったと。自分はそのような確信が得られないまま戻って来たような気がした。
「三神は、もともと天から遣わされた。だから天に還ったのだな。朱雀は地にあった力だ。元々、ファヌン様の父上が先んじて人に与えられた。だから地に治まったと見えたが、どうだろう。朱雀の片割れであるお前の姉が天に上がり、人というものを伝えた。それから身を以て火の力を地に封じたというのは、できすぎた話だろうか。」
ヒョンゴはちゃっかりと酒瓶を抱えて座り込んだ。この師匠の気配に気がつかないなんて、どうかしている。
「気を失ったのですか。」
ヒョンゴは改まった調子でチョロに話しかけた。
「私はいたるところが急に痛んで、おお、ついに敵に斬られたと死を恐れました。しかしまた目を開いた。真っ白な嵐を見て、これがあの世かと思ったが、ハハどうも違っていたようです。」
朱雀の片割れー
「傷が直らないうちは、あまり飲むな。」
初めて聞くチョロの声音に、スジニは驚いて顔をあげた。
by kuro-kmd
| 2010-05-18 15:44
| 朱雀の将軍