2010年 05月 18日
朱雀の将軍 8
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天の力を借りず、人の力で国を建てる。天の力は天にーそこには神官も建物もあったが、天地神堂は別のものになっていた。代々の王を祀る神殿。天からのお告げはキハ大神官で終わりを告げた。新しい世をつくると宣言したチュシンの王は、天ではなく歴代高句麗王に、自らの父王に戦勝を祈願する。神官の姿はなく、ひとりただ静かに黙祷するとその場を去った。
国境沿いに細長い地域で紛争が続いていた。百済は、得体の知れない細かい戦闘で手が回らず鎮圧できないと言う。度々高句麗に救済を求め援軍要請までしてきたが、裏で手を組んでいるのは明白である。終わりのない戦は高句麗の国境守備を疲弊させた。次第に国境地帯は帯状に分断され、恒常的な紛争地となっていた。百済直下の紛争地である。出所の知れない兵がここから出兵し、略奪し、倭へと逃げる。百済はそれを取り逃がす役割を延々と演じていた。
ついにこの爆弾が破裂した。欲を出した倭は、ここを足がかりにまとまった軍を送り、高句麗への北上を企てたのだった。こうなると百済にできた倭の飛び地のようなものだった。
「臆病者のやることです。そしてこれは、小手先の敵を叩いても終わりません。」
「アシン王は自らが二度と顔を出さずに済むような戦をしているな。」
太王の前に引きずり出され命乞いをさせられたアシン王の恨みは深かった。同時に高句麗太王を深く恐れた。アシンは城に閉じこもって自らの国境線をよそ者に与え、領土を削って防衛帯を引いたようなものである。残念ながら、自国に引き入れた他の軍を掌握する度量も知恵もなかった。
「百済が掌握できないというのだけは本当でしょう。国境の城は骨抜きになっています。」
「われわれも百済と全面衝突はできない。これを利用して百済を弱体化するほうが好ましい。倭の軍を袋詰めにしてアシンの鼻先に送り返してやろう。」
高句麗には周辺諸国と良好な関係にあった。新羅は全面的な協力を約束し、倭の派兵が一区切りついたことを確かめた。堅固な高句麗国境の城にはそのまま兵を詰めて防御陣を敷き、北では山を抜けて分け入る要衝を閉める。南は援軍という名分の水軍が海岸線を閉じる。紛争地帯を通過中の敵を太王の目の前で南から討つよう、できないならば百済国境から攻めてやると通告した。高句麗との共同戦を強制された百済は、拒めば太王軍が北から攻め入る口実を与えることになった。
国境守備と水軍が睨みを利かせている間に、北の狭窄部を閉めなければならない。精鋭部隊が充てられた。三将の率いる軍である。
「ごちゃごちゃ言ってるが要するにこの谷を頂いて、北へ出たのは追いかけて全滅させればいいんだな?」
チュムチがあまりにもかいつまんで言うので、将軍たちが声を上げて笑った。太王も一緒に苦笑している。
「その通りだ。しかも重要なのはただ一点、決して北へ逃すなということだ。一兵でも逃せばわれらの民が犠牲になる。敵を一気に南へ送り返せ。わたしも前線に就く。」
笑いが納まり、ごくりと息を飲む音がした。太王はゆったりと座り、地図を指した。
「海と国境とで多くの兵力が割かれる。北方に回す兵力は多くない。少数精鋭の我が軍に期待する。だがいいなー」
「死んではならない」
全員が声を合わせた。王は目を伏せて笑った。
「そうだ、死ぬことはならん。生きてわたしのそばにいろ。」
この時太王軍は熱狂する。将の興奮が兵に伝わり、足を踏み鳴らす音が地の果てまで続くようだ。陛下、という叫びの中、王はスジニを探した。赤い徽章をつけた漆黒の鎧姿はしなやかに細く、まるで黒い豹のように人目を集めた。束ねた長い髪を細く垂らし、かすかにうなじが覗く。視線に反応して、スジニが目を閉じた。次に目を開いた時、かすかに王が頭を巡らした。
深夜、兵士と同じように太王は鎧をつけたままだった。出陣は早朝、すでに水軍は発ち、夜が明け次第、ジョルノ族長となったタルグが国境へ、太王率いる軍は山間へ発つ。王は無言で自分の横をとんとん叩いたが、スジニは直立したままだった。
「肩はいかがですか。」
「ほんの数日でも回復するものだな。腕が回るようになった。利き腕ではないのがありがたい。」
小さな呻き声を思い出してスジニは胸を痛めた。王の健康は、敵軍はもちろん自軍の士気を左右する重大事だ。平和時でさえ風邪をひいても各国に伝わる。自軍の将軍に鎧姿で無欠を見せた王を思うと、その答えが本当なのか、探るような気持ちが湧いた。それを察して王が笑った。
「大丈夫だ。お前には本当のことだけを言う。ずっとそうしているように。」
やっとスジニは直立を解いて近づくと、そっと王の肩口に触れた。
「お前に着せてもらおうと思ったが、忙しい将軍が見つからなかった。」
スジニは苦笑した。自分の兵を持つと出陣前の慌ただしさは格別だった。近衛隊とは留守中の警護について話し合い指示を出した。太子の残る宮を守らなければならない。アジクはちゃんと寝ただろうか。鎧をそっと撫でながら思いがあちらこちらへ飛んだ。
「気をつけてかかれ。倭の軍と言っているが、盗賊のようなやつらだ。あまりお行儀のいい兵ではないらしい。まさしく追いつめた鼠だ。相手構わず噛み付くだろう。」
「わかりました。」
鎧を撫でていた手が取られた。王は小さな細い手を両手で包むと瞳を覗き込んで笑った。
「かすり傷ひとつ負うんじゃない。わかったな。」
国境沿いに細長い地域で紛争が続いていた。百済は、得体の知れない細かい戦闘で手が回らず鎮圧できないと言う。度々高句麗に救済を求め援軍要請までしてきたが、裏で手を組んでいるのは明白である。終わりのない戦は高句麗の国境守備を疲弊させた。次第に国境地帯は帯状に分断され、恒常的な紛争地となっていた。百済直下の紛争地である。出所の知れない兵がここから出兵し、略奪し、倭へと逃げる。百済はそれを取り逃がす役割を延々と演じていた。
ついにこの爆弾が破裂した。欲を出した倭は、ここを足がかりにまとまった軍を送り、高句麗への北上を企てたのだった。こうなると百済にできた倭の飛び地のようなものだった。
「臆病者のやることです。そしてこれは、小手先の敵を叩いても終わりません。」
「アシン王は自らが二度と顔を出さずに済むような戦をしているな。」
太王の前に引きずり出され命乞いをさせられたアシン王の恨みは深かった。同時に高句麗太王を深く恐れた。アシンは城に閉じこもって自らの国境線をよそ者に与え、領土を削って防衛帯を引いたようなものである。残念ながら、自国に引き入れた他の軍を掌握する度量も知恵もなかった。
「百済が掌握できないというのだけは本当でしょう。国境の城は骨抜きになっています。」
「われわれも百済と全面衝突はできない。これを利用して百済を弱体化するほうが好ましい。倭の軍を袋詰めにしてアシンの鼻先に送り返してやろう。」
高句麗には周辺諸国と良好な関係にあった。新羅は全面的な協力を約束し、倭の派兵が一区切りついたことを確かめた。堅固な高句麗国境の城にはそのまま兵を詰めて防御陣を敷き、北では山を抜けて分け入る要衝を閉める。南は援軍という名分の水軍が海岸線を閉じる。紛争地帯を通過中の敵を太王の目の前で南から討つよう、できないならば百済国境から攻めてやると通告した。高句麗との共同戦を強制された百済は、拒めば太王軍が北から攻め入る口実を与えることになった。
国境守備と水軍が睨みを利かせている間に、北の狭窄部を閉めなければならない。精鋭部隊が充てられた。三将の率いる軍である。
「ごちゃごちゃ言ってるが要するにこの谷を頂いて、北へ出たのは追いかけて全滅させればいいんだな?」
チュムチがあまりにもかいつまんで言うので、将軍たちが声を上げて笑った。太王も一緒に苦笑している。
「その通りだ。しかも重要なのはただ一点、決して北へ逃すなということだ。一兵でも逃せばわれらの民が犠牲になる。敵を一気に南へ送り返せ。わたしも前線に就く。」
笑いが納まり、ごくりと息を飲む音がした。太王はゆったりと座り、地図を指した。
「海と国境とで多くの兵力が割かれる。北方に回す兵力は多くない。少数精鋭の我が軍に期待する。だがいいなー」
「死んではならない」
全員が声を合わせた。王は目を伏せて笑った。
「そうだ、死ぬことはならん。生きてわたしのそばにいろ。」
この時太王軍は熱狂する。将の興奮が兵に伝わり、足を踏み鳴らす音が地の果てまで続くようだ。陛下、という叫びの中、王はスジニを探した。赤い徽章をつけた漆黒の鎧姿はしなやかに細く、まるで黒い豹のように人目を集めた。束ねた長い髪を細く垂らし、かすかにうなじが覗く。視線に反応して、スジニが目を閉じた。次に目を開いた時、かすかに王が頭を巡らした。
深夜、兵士と同じように太王は鎧をつけたままだった。出陣は早朝、すでに水軍は発ち、夜が明け次第、ジョルノ族長となったタルグが国境へ、太王率いる軍は山間へ発つ。王は無言で自分の横をとんとん叩いたが、スジニは直立したままだった。
「肩はいかがですか。」
「ほんの数日でも回復するものだな。腕が回るようになった。利き腕ではないのがありがたい。」
小さな呻き声を思い出してスジニは胸を痛めた。王の健康は、敵軍はもちろん自軍の士気を左右する重大事だ。平和時でさえ風邪をひいても各国に伝わる。自軍の将軍に鎧姿で無欠を見せた王を思うと、その答えが本当なのか、探るような気持ちが湧いた。それを察して王が笑った。
「大丈夫だ。お前には本当のことだけを言う。ずっとそうしているように。」
やっとスジニは直立を解いて近づくと、そっと王の肩口に触れた。
「お前に着せてもらおうと思ったが、忙しい将軍が見つからなかった。」
スジニは苦笑した。自分の兵を持つと出陣前の慌ただしさは格別だった。近衛隊とは留守中の警護について話し合い指示を出した。太子の残る宮を守らなければならない。アジクはちゃんと寝ただろうか。鎧をそっと撫でながら思いがあちらこちらへ飛んだ。
「気をつけてかかれ。倭の軍と言っているが、盗賊のようなやつらだ。あまりお行儀のいい兵ではないらしい。まさしく追いつめた鼠だ。相手構わず噛み付くだろう。」
「わかりました。」
鎧を撫でていた手が取られた。王は小さな細い手を両手で包むと瞳を覗き込んで笑った。
「かすり傷ひとつ負うんじゃない。わかったな。」
by kuro-kmd
| 2010-05-18 15:47
| 朱雀の将軍