2010年 06月 16日
女郎花
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思わずタムドクは呻いた。深い泥に全身が埋まって行くような感覚。ああ、何だこれは。お前は何だ。金色の光の中で、女が笑いさざめいた。さ、あててごらん。天の人。一人ではないのか?金色の女たちがタムドクに群がる。あててごらん、天の人。われらはひとりではないけれど多数でもない。だって…ねぇ。ねぇ。くすくすと笑いが広がる。唇が塞がれ、胴にまきつき、腰を覆う。なにかがくねるようにのしかかる。やめろ、やめてくれ。なんだこれは。お前たちは誰だ。
目を開くと、すっかり日が暮れていた。タムドクがぼんやりと目を開け、やがて起き上がったのは宮の外れの草地で、静かな池の端だった。軽い軍装は露で湿りはじめている。目の前の金色の霧がやっと晴れると、薄暗くなった水面が目に入った。眠ってしまったのか。誰か起こしてくれればいいものを。そう思いながら、人払いしたのは自分だったと気がついた。戦続きでようやく国内城に戻り、今度は内政続きで忙しいのに、やはり夜は眠れない。黄昏時に庭を歩き、池の端に寝転んだ。それっきり、とっぷり日が暮れるまでこうして眠っていたらしい。
それにしても—まんざらではない夢だった。思わず袖で額を拭いながら思う。柔らかないくつもの金色の女体に包まれる夢とは。これは夜伽でもつけよということか。タムドクは思わず笑った。その顔に向けて、ぬっと手拭が差し出される。チョロだった。
「ああ、すまない。」
青龍の守護人は、こうして外にいるとまったく気配を消してしまう。いたのか、そう言いながら振り向くと、うっそりと立ったまま端正な横顔をこちらに回した。珍しく、探るように口を開いた。
「なにか夢を?」
胸の内を読まれたような問いに、自分が何か声に出したかと疑いながら、タムドクはチョロをじっと見つめた。それっきりチョロはタムドクの答えを待っている。こうしていくらでも待つ男だ。タムドクは諦めて、問いに問いで返すことにした。
「どうしてそう思う?」
チョロは真顔で言った。
「あれは人ではありません。おそらくあの花」
「花?」
チョロが黙って指す先に、黄色く粟立ったような女郎花が揺れている。タムドクは頭を抱えた。神器を胸に抱え、森と一心同体だったようなこの男は、今も人間離れしていて言葉数が少ない。日頃から核心しか口に出さないが、今日のこれはさすがに理解不能だ。
「頼む、もう少しわかるように言ってくれ。」
「そうとしか」
ほかに言いようがないと?自分が人外のものと交わったとでも言いたいのか。
「あの女たちはこの花の精霊だとでも言うのか。」
「ともかく人ではありません。」
「…見たのか」
女を見たのか、であり、のしかかられる自分もろとも見たのか、という問いであるが、やはりチョロの答はどこかずれていた。
「人のかたちはしていた。」
ぞっとしながら、タムドクはそっと自分の身なりを確かめた。肌に直接感じたようだったが衣服に乱れはなく、一体この男の目には何がどう映ったのかと思う。一方そんなことにはまるで興味無さげに、チョロは少し後ろに控えた。タムドクが立ち上がり、戻るのを無言で待っている。会話は成立し難いが、なぜかこうして通じている。タムドクはようやく立ち上がり、首を傾げて歩き出した。王の背丈をわずかに越えるチョロの長駆が続いた。
黄昏時にタムドクは宮を抜け、池を目指して歩いた。チョロが後につくとわかっているので、他に従う姿はない。途中、珍しくチョロの方から声がかかった。
「あの者らに会いに?」
「正体が知りたい。」
「あれは花です。」
にわかに信じられないことを繰り返す。この男が言うのでなければ、笑い飛ばすところだ。
「あの場所で眠らなければ、会うことはありません。」
「眠れば会えるということだな?」
チョロはまじまじとタムドクを見つめた。諦めたように歩を止めたチョロを置いて、タムドクは昨日と同じ池の端に寝転んだ。一体あれらは何なのか、突き止めたくなっていた。金色の靄のような女たち—
やがて笑いが起こった。また来てくださった。天の人。忘れられないのね。くすくすと笑いが起こる。唇を吸い、首に巻き付き、胸に吸いつく。柔らかな金色の霧が腰を覆った。だめだ、だめだ。タムドクはようやく目を開いた。金色の粉が散るような中で必死に頭を擡げた。
「お前たちはなんだ。人ではないのか?」
「人とはなんでございましょう?」
狂ったような笑いが渦を巻いた。唇を吸われこじ開けられ、金色の渦が体内を侵す。
やめろ!叫びとともに一陣の風が巻いた。厚い雲から雷鳴が轟き、一気に雨粒が落ちてきた。金色の雲は一目散に消え去り、タムドクは顔を打つ雨の中、仰向けに転がっていた。視界にぬっと入った影が差し出す手をとる。槍を片手にしたチョロが、タムドクを引き起こした。
「雨も降らすのか。雨は玄武のものではなかったか。」
首を傾げるチョロに思わず笑いかけ、ふたりはずぶ濡れで駆け出した。
「草木と通じているお前のほうが、あれにはふさわしいんじゃないか。」
酒を口に含んでタムドクが言う。さあ、と困ったようにチョロが返すと、酒瓶を突きつけ、ようやく一口舐めるまで許さなかった。
「まったく、男の煩悩が固まったような幻だ。わたしが呼んだんじゃないぞ。」
チョロが不審そうな目を向ける。
「お前は煩悩など縁がなさそうだ。」
ちらりと目配せをすると、ああ、と合点がいった様子で頷いた。
「女のことならば、向こうから来るものは頂戴する。」
タムドクの目が点になった。何と、案外さばけているんだな。この男。四神の主にも、この男の胸の深みまではわからなかった。ひとを女として追うのはやめたのだ。千年も前に。あまりに深く埋まっていて、チョロ自身にもわからないことだった。
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ものすごく変なお話ですが、フォルダに埋まっていたのであげてみました
目を開くと、すっかり日が暮れていた。タムドクがぼんやりと目を開け、やがて起き上がったのは宮の外れの草地で、静かな池の端だった。軽い軍装は露で湿りはじめている。目の前の金色の霧がやっと晴れると、薄暗くなった水面が目に入った。眠ってしまったのか。誰か起こしてくれればいいものを。そう思いながら、人払いしたのは自分だったと気がついた。戦続きでようやく国内城に戻り、今度は内政続きで忙しいのに、やはり夜は眠れない。黄昏時に庭を歩き、池の端に寝転んだ。それっきり、とっぷり日が暮れるまでこうして眠っていたらしい。
それにしても—まんざらではない夢だった。思わず袖で額を拭いながら思う。柔らかないくつもの金色の女体に包まれる夢とは。これは夜伽でもつけよということか。タムドクは思わず笑った。その顔に向けて、ぬっと手拭が差し出される。チョロだった。
「ああ、すまない。」
青龍の守護人は、こうして外にいるとまったく気配を消してしまう。いたのか、そう言いながら振り向くと、うっそりと立ったまま端正な横顔をこちらに回した。珍しく、探るように口を開いた。
「なにか夢を?」
胸の内を読まれたような問いに、自分が何か声に出したかと疑いながら、タムドクはチョロをじっと見つめた。それっきりチョロはタムドクの答えを待っている。こうしていくらでも待つ男だ。タムドクは諦めて、問いに問いで返すことにした。
「どうしてそう思う?」
チョロは真顔で言った。
「あれは人ではありません。おそらくあの花」
「花?」
チョロが黙って指す先に、黄色く粟立ったような女郎花が揺れている。タムドクは頭を抱えた。神器を胸に抱え、森と一心同体だったようなこの男は、今も人間離れしていて言葉数が少ない。日頃から核心しか口に出さないが、今日のこれはさすがに理解不能だ。
「頼む、もう少しわかるように言ってくれ。」
「そうとしか」
ほかに言いようがないと?自分が人外のものと交わったとでも言いたいのか。
「あの女たちはこの花の精霊だとでも言うのか。」
「ともかく人ではありません。」
「…見たのか」
女を見たのか、であり、のしかかられる自分もろとも見たのか、という問いであるが、やはりチョロの答はどこかずれていた。
「人のかたちはしていた。」
ぞっとしながら、タムドクはそっと自分の身なりを確かめた。肌に直接感じたようだったが衣服に乱れはなく、一体この男の目には何がどう映ったのかと思う。一方そんなことにはまるで興味無さげに、チョロは少し後ろに控えた。タムドクが立ち上がり、戻るのを無言で待っている。会話は成立し難いが、なぜかこうして通じている。タムドクはようやく立ち上がり、首を傾げて歩き出した。王の背丈をわずかに越えるチョロの長駆が続いた。
黄昏時にタムドクは宮を抜け、池を目指して歩いた。チョロが後につくとわかっているので、他に従う姿はない。途中、珍しくチョロの方から声がかかった。
「あの者らに会いに?」
「正体が知りたい。」
「あれは花です。」
にわかに信じられないことを繰り返す。この男が言うのでなければ、笑い飛ばすところだ。
「あの場所で眠らなければ、会うことはありません。」
「眠れば会えるということだな?」
チョロはまじまじとタムドクを見つめた。諦めたように歩を止めたチョロを置いて、タムドクは昨日と同じ池の端に寝転んだ。一体あれらは何なのか、突き止めたくなっていた。金色の靄のような女たち—
やがて笑いが起こった。また来てくださった。天の人。忘れられないのね。くすくすと笑いが起こる。唇を吸い、首に巻き付き、胸に吸いつく。柔らかな金色の霧が腰を覆った。だめだ、だめだ。タムドクはようやく目を開いた。金色の粉が散るような中で必死に頭を擡げた。
「お前たちはなんだ。人ではないのか?」
「人とはなんでございましょう?」
狂ったような笑いが渦を巻いた。唇を吸われこじ開けられ、金色の渦が体内を侵す。
やめろ!叫びとともに一陣の風が巻いた。厚い雲から雷鳴が轟き、一気に雨粒が落ちてきた。金色の雲は一目散に消え去り、タムドクは顔を打つ雨の中、仰向けに転がっていた。視界にぬっと入った影が差し出す手をとる。槍を片手にしたチョロが、タムドクを引き起こした。
「雨も降らすのか。雨は玄武のものではなかったか。」
首を傾げるチョロに思わず笑いかけ、ふたりはずぶ濡れで駆け出した。
「草木と通じているお前のほうが、あれにはふさわしいんじゃないか。」
酒を口に含んでタムドクが言う。さあ、と困ったようにチョロが返すと、酒瓶を突きつけ、ようやく一口舐めるまで許さなかった。
「まったく、男の煩悩が固まったような幻だ。わたしが呼んだんじゃないぞ。」
チョロが不審そうな目を向ける。
「お前は煩悩など縁がなさそうだ。」
ちらりと目配せをすると、ああ、と合点がいった様子で頷いた。
「女のことならば、向こうから来るものは頂戴する。」
タムドクの目が点になった。何と、案外さばけているんだな。この男。四神の主にも、この男の胸の深みまではわからなかった。ひとを女として追うのはやめたのだ。千年も前に。あまりに深く埋まっていて、チョロ自身にもわからないことだった。
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ものすごく変なお話ですが、フォルダに埋まっていたのであげてみました
by kuro-kmd
| 2010-06-16 08:45
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