2010年 07月 02日
蛇 4
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揃いの黒い鎧をつけた近衛隊が現れると、弓場の兵士たちはちらちらとそちらを窺った。近衛隊の拵えはスジニで見慣れていたが、こうして一団で現れるのは珍しい。太王はほんの数人のお付きだけでぶらぶらとどこでも歩き回ると新兵もすでに知っていた。
スジニが急ぎ足で歩み寄った。一行が付き従っているのは太子だった。コリョンと王が弓場を見回している。兵たちは思わずそちらに気を取られ、手を休めて自然に頭を垂れた。スジニが太子に微笑みかける。母代わりの将軍はつい手をだして、風にもつれる太子の髪を顔から払った。何事か話しかけた王が笑い、太子もスジニも続けて笑った。
「見てみろよ、王様んちはいいよなあ。絵に描いたようなご一家だ。」
「太子様はなんで弓場を見に来たのかね。弓はいつも将軍がつきっきりで教えてるのに。」
「将軍は母代わりには見えないなぁ。やっぱどう見ても将軍だよなぁ。」
「だからそれは、ちゃんと分けて将軍がそうしてるんだよ。」
人前で一家が揃うことはあまりなく、兵たちはこそこそと囁き合った。それらの囁きの後ろを小さな影がコソリと通った。
鋭い風切音がして、咄嗟にスジニはコリョンの胸に腕を回すと力任せに引いた。ぐっと反ったコリョンの頬の高さを矢が掠め、藁束に命中した。
一瞬の静寂の後、あたりは騒然となった。近衛隊士が王と太子をぐるりと囲む。つかつかと歩み寄り、厳しい表情で藁束から矢を抜いたスジニは、信じられないものを見た顔で、それでもなお抜いた矢を凝視した。コリョンはいまだ何が起きたのかよくわからないようで、殺気立った近衛兵を見て驚いている。
「太子様はすぐに宮殿へお戻りください。弓場はまた後日ご覧にいれます。」
そう言うと、侍従に目配せをして太子の背を叩いた。
「誤射なのか。」
厳しい顔で王があたりを見回した。普段身内には向けられない声音に、あたりの空気が凍った。
「今射たもの—」
しんと静まり返ったまま、答える声はない。
「全員その場を動くな。弓筒を下ろせ。」
スジニはそのまま弓場を一周し、自ら全ての矢を確認した。
「お話があります。」
王の元に戻るとスジニが囁いた。訓練に戻れ。兵に対して短く言うと、将軍の控え室へと王を誘った。完全に人払いをし、近衛隊に周囲を囲ませると、スジニは一本の矢をことりと置いた。さきほど藁束から抜いたもの、コリョンの頬を掠めたものだった。
「これがどうした。」
王の問いに、スジニがためらいながら答えた。
「これはわたしの矢です。」
「—なに?」
「しかも今使っているものではありません。昔—お側を離れていた頃の。」
王は卓上に置かれた一本の矢をじっと見た。たしかに、竹の色は飴色に変わり、矢羽根もぼさぼさと古びて色が抜けていた。矢じりの返しは黒く変色している。これは血だ。黒く乾いているが、確かにこれは以前に誰かの肉を貫いたものだった。
それとスジニとを交互に見ながら、王はじっと言葉を待った。スジニは大きく息を吐いた。
「何者かが、昔のわたしの矢を太子様の鼻先に打ち込んだ、ということのようです。」
「心当たりは。」
スジニは首を振って苦々しく笑った。逃げ隠れる間に、何度矢を射たかわからない。慣れないうちは、女子供と見て物盗りに襲われることもしばしばあった。だんだん目立たない暮らしに慣れ、こつをつかんでようやく矢を射ることは減っていった。
「身を守るために、何本の矢を失ったか覚えがありません。」
「血が付いている。何かその頃の恨みでもあるのかもしれない。しかし、その頃太子は幼いからな。身分も知れてはいなかった。」
スジニは腕を組んで考え込んだ。
「とにかく、しばらく太子は外に出すまい。お前も気をつけろ。疑いたくはないが、お前の軍のものと思う方が妥当だ。」
申し訳ありません、頭を下げるとスジニは唇を噛んだ。本来、外郭といえど、宮殿の弓場には近衛隊しか入れない。今はスジニが弓隊を束ねているので、今日のように使うことがあった。身元がしっかりした近衛隊士とは違って、軍の兵は寄せ集めで何者が混じっているかわからない。
「今後は中の弓場は使いません。身元の怪しいものがいないか、もう一度調べてみます。」
そう言うと、頭を上げて目を瞑りまた大きな息を吐いた。民の身元を調べてもそうわかることはないだろうが、それでも自軍が信用できないままでいるよりはましだった。
「大丈夫か。」
労られるほどスジニは辛くなった。王もそんなスジニを知っていたが、構わず手を伸ばし、指の背で頬を撫でた。
「はい。二度とこのようなことは。」
そう言ってようやく目に力が入った。王は掌で頬を包み、頼んだと、ただ一言告げた。
ウルは心配そうにスジニを見上げると、機嫌を伺うようにおそるおそる口を開いた。
「それにしても、あっという間に近衛隊が取り囲んで、凄かった。だれか忍び込んでいたとしても、あれでは次は射てない。」
スジニは厳しい表情のまま、頷いた。
「そのためにお側にいるのだから。」
「もし隊長に当たったらと思うと、どきどきしたなあ。でもそしたらおれが一番にかけつけるんだ」
ウルの言葉は厳しく遮られた。
「わたしに当たるべきなの。王様でも太子様でもなく。もう行きなさい。」
ウルはちらちらとスジニを窺ったが、何の表情も読み取ることができなかった。所在無さげに立ち上がり、数歩行ったところからじっとスジニを見つめた。自分に注がれる暗い瞳にスジニは気がついていなかった。
スジニが急ぎ足で歩み寄った。一行が付き従っているのは太子だった。コリョンと王が弓場を見回している。兵たちは思わずそちらに気を取られ、手を休めて自然に頭を垂れた。スジニが太子に微笑みかける。母代わりの将軍はつい手をだして、風にもつれる太子の髪を顔から払った。何事か話しかけた王が笑い、太子もスジニも続けて笑った。
「見てみろよ、王様んちはいいよなあ。絵に描いたようなご一家だ。」
「太子様はなんで弓場を見に来たのかね。弓はいつも将軍がつきっきりで教えてるのに。」
「将軍は母代わりには見えないなぁ。やっぱどう見ても将軍だよなぁ。」
「だからそれは、ちゃんと分けて将軍がそうしてるんだよ。」
人前で一家が揃うことはあまりなく、兵たちはこそこそと囁き合った。それらの囁きの後ろを小さな影がコソリと通った。
鋭い風切音がして、咄嗟にスジニはコリョンの胸に腕を回すと力任せに引いた。ぐっと反ったコリョンの頬の高さを矢が掠め、藁束に命中した。
一瞬の静寂の後、あたりは騒然となった。近衛隊士が王と太子をぐるりと囲む。つかつかと歩み寄り、厳しい表情で藁束から矢を抜いたスジニは、信じられないものを見た顔で、それでもなお抜いた矢を凝視した。コリョンはいまだ何が起きたのかよくわからないようで、殺気立った近衛兵を見て驚いている。
「太子様はすぐに宮殿へお戻りください。弓場はまた後日ご覧にいれます。」
そう言うと、侍従に目配せをして太子の背を叩いた。
「誤射なのか。」
厳しい顔で王があたりを見回した。普段身内には向けられない声音に、あたりの空気が凍った。
「今射たもの—」
しんと静まり返ったまま、答える声はない。
「全員その場を動くな。弓筒を下ろせ。」
スジニはそのまま弓場を一周し、自ら全ての矢を確認した。
「お話があります。」
王の元に戻るとスジニが囁いた。訓練に戻れ。兵に対して短く言うと、将軍の控え室へと王を誘った。完全に人払いをし、近衛隊に周囲を囲ませると、スジニは一本の矢をことりと置いた。さきほど藁束から抜いたもの、コリョンの頬を掠めたものだった。
「これがどうした。」
王の問いに、スジニがためらいながら答えた。
「これはわたしの矢です。」
「—なに?」
「しかも今使っているものではありません。昔—お側を離れていた頃の。」
王は卓上に置かれた一本の矢をじっと見た。たしかに、竹の色は飴色に変わり、矢羽根もぼさぼさと古びて色が抜けていた。矢じりの返しは黒く変色している。これは血だ。黒く乾いているが、確かにこれは以前に誰かの肉を貫いたものだった。
それとスジニとを交互に見ながら、王はじっと言葉を待った。スジニは大きく息を吐いた。
「何者かが、昔のわたしの矢を太子様の鼻先に打ち込んだ、ということのようです。」
「心当たりは。」
スジニは首を振って苦々しく笑った。逃げ隠れる間に、何度矢を射たかわからない。慣れないうちは、女子供と見て物盗りに襲われることもしばしばあった。だんだん目立たない暮らしに慣れ、こつをつかんでようやく矢を射ることは減っていった。
「身を守るために、何本の矢を失ったか覚えがありません。」
「血が付いている。何かその頃の恨みでもあるのかもしれない。しかし、その頃太子は幼いからな。身分も知れてはいなかった。」
スジニは腕を組んで考え込んだ。
「とにかく、しばらく太子は外に出すまい。お前も気をつけろ。疑いたくはないが、お前の軍のものと思う方が妥当だ。」
申し訳ありません、頭を下げるとスジニは唇を噛んだ。本来、外郭といえど、宮殿の弓場には近衛隊しか入れない。今はスジニが弓隊を束ねているので、今日のように使うことがあった。身元がしっかりした近衛隊士とは違って、軍の兵は寄せ集めで何者が混じっているかわからない。
「今後は中の弓場は使いません。身元の怪しいものがいないか、もう一度調べてみます。」
そう言うと、頭を上げて目を瞑りまた大きな息を吐いた。民の身元を調べてもそうわかることはないだろうが、それでも自軍が信用できないままでいるよりはましだった。
「大丈夫か。」
労られるほどスジニは辛くなった。王もそんなスジニを知っていたが、構わず手を伸ばし、指の背で頬を撫でた。
「はい。二度とこのようなことは。」
そう言ってようやく目に力が入った。王は掌で頬を包み、頼んだと、ただ一言告げた。
ウルは心配そうにスジニを見上げると、機嫌を伺うようにおそるおそる口を開いた。
「それにしても、あっという間に近衛隊が取り囲んで、凄かった。だれか忍び込んでいたとしても、あれでは次は射てない。」
スジニは厳しい表情のまま、頷いた。
「そのためにお側にいるのだから。」
「もし隊長に当たったらと思うと、どきどきしたなあ。でもそしたらおれが一番にかけつけるんだ」
ウルの言葉は厳しく遮られた。
「わたしに当たるべきなの。王様でも太子様でもなく。もう行きなさい。」
ウルはちらちらとスジニを窺ったが、何の表情も読み取ることができなかった。所在無さげに立ち上がり、数歩行ったところからじっとスジニを見つめた。自分に注がれる暗い瞳にスジニは気がついていなかった。
by kuro-kmd
| 2010-07-02 22:12
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