2010年 08月 26日
冬の日-----馬場にて・1-----
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少し陽が覗いて、真っ白な世界をきらきらと照らしている。雪を除けた跡はどこも凍り付き、相変わらず足早な陛下を追うのは大変だ。国務をあれこれ捌かれた後、約束通り、太子様の乗馬を見られるようだった。
絹の裾が翻る。今日はきっとあまり時間がなくて、ご自身で乗馬はされないのだな。お召し換えのとき、気がない様子でこれでいい、と、長い上着を自ら羽織られた。もうすっかり政のことで頭が一杯の様子だった。
雪が反射する中、目を細めて歩く。雪だまりの奇妙な形に気を取られる間にも、陛下は数間先に行ってしまわれる。朱雀将軍もそうだが、まるで重さがないように、滑るように歩くのだ。先輩はついて歩いたことがあるんだろうか。歩くだけでもきっと無理だ。
ようやく遠く馬場が見渡せるところまで出た。宮殿の外郭は、雪のせいか真っ平らに広々として見える。すでに馬が走り回ったらしい馬場だけが、泥まじりに黒々としている。近衛兵が数人と朱雀将軍は、太子様らしい小さな影に寄り添っている。ひときわ大きいのは白虎将軍だ。乗馬と聞いて、馳せ参じたようだ。
太子様の乗馬の師として、白虎将軍は大張り切りだが、いつも朱雀将軍に茶々を入れられて憮然としている。武勇名高い大男のそんな様を見るのも、面白くて仕方がない。そんな時の朱雀将軍は、まるっきりやんちゃな少年だ。まるで男同士、気のおけない仲間として扱われるのがとても楽しそうだ。陛下も同様で、あけすけな冗談に声をあげて笑われる。
陛下の足が一層早くなった。それでもすいすいと歩かれているだけなのに、こちらは必死で小走りになっている。それが、急に走り出した。馬が嘶く声に驚いて顔を上げると、葦毛が一頭、後足で大きく跳ねている。少し前に、陛下が太子様にと下された馬だ。何に怯えたのか、朱雀将軍が手綱を捕って抑え、太子様の前に出て庇われていた。
「おいおい!こら、どうしたんだ!」
白虎将軍がむんずと馬を押さえ込んでいる。必死に陛下を追って走ると、人だかりの中に朱雀将軍が座り込んでいた。
「どうした?大丈夫か?」
跪いた陛下が、将軍の顔を覗き込まれた。なんと、目尻に涙が滲んでいる!
「おい、馬に踏まれたな。」
手綱を取った白虎将軍が、太子様の小さな肩に手を置いたまま声を上げた。
「折れてるかもしれんぞ?」
陛下がぎょっとしたように顔を上げ、白虎将軍を問い質す。
「折れてるって、足がか!?」
「そうやってよく指を折るんですよ。どら、ちょっと靴をぬいでみろ。」
跪いたまま、陛下は手ずから朱雀将軍の長い軍靴を引き下ろした。膝まである靴を剥くようにしていく。足首のあたりで鋭い悲鳴が上がった。
「いたい!あいたた、チュムチ、これ、折れてるの?まったく冗談じゃない!」
そっと靴をはずし、壊れ物でも扱うように慎重に足袋が外される。真っ白な細い足指が現れ、ちょっとどきりとする。踏まれた跡は指というより足の甲だ。少し盛り上がったようになっているのは、腫れ始めたところだろうか。陛下の指が触れるか触れないかのうちに、また朱雀将軍の悲鳴が響いた。
「ちょ、やめてください!信じられないくらい痛いんだから—」
戦場で鬼神のように敵を叩き斬る姿からは思いもよらない。肩の骨が外れそうになっても陛下の腕を離さない将軍が、涙を滲ませている。そういえば痛みっていうのは、ああいう涙が出るものだった。足先やら頭をぶつけた時なんか、ただ自然に涙が出るっけ—
イモ!あ、将軍、大丈夫!?幼い声がかかる。大丈夫、大丈夫。代わりに野太い声が答えた。ああいう体のはしっこははじめ痛いものだが、添え木をしてじっとしていれば、ひと月くらいで骨がくっつきます。
陛下がそっと腕を回し、朱雀将軍を抱き上げると、そのまま歩き始めた。絹の上着はすっかり泥だらけになっている。
えっ。ええと、どうすればいいんだ。こんなこと、侍従長も教えてくれない。いや、こないだの戦から、そういうことばっかりだ。きょろきょろと辺りを見回し、白虎将軍、太子様、近衛兵を順に目で追う。みなぽかんと口を開け、ただ陛下を見送っていた。
「侍医を連れて来い。」
ようやく命が下った。白虎将軍の声が響いている。イモはお父上に任せて、大丈夫、もう少し馬に乗りましょう。な?
将軍を横抱きにして、ものすごい勢いで歩かれる陛下と方角を分かつ。いつ何時でも誰かが随いていることになっているが、御命だからしょうがない。侍医を探しに走り出し、あっ、と思い出して駆け戻る。将軍の長靴を拾い上げた。あの足先を包んでいた足袋も—。それを握って、改めて走り出す。コムルの医術者でもいいかもしれない。
絹の裾が翻る。今日はきっとあまり時間がなくて、ご自身で乗馬はされないのだな。お召し換えのとき、気がない様子でこれでいい、と、長い上着を自ら羽織られた。もうすっかり政のことで頭が一杯の様子だった。
雪が反射する中、目を細めて歩く。雪だまりの奇妙な形に気を取られる間にも、陛下は数間先に行ってしまわれる。朱雀将軍もそうだが、まるで重さがないように、滑るように歩くのだ。先輩はついて歩いたことがあるんだろうか。歩くだけでもきっと無理だ。
ようやく遠く馬場が見渡せるところまで出た。宮殿の外郭は、雪のせいか真っ平らに広々として見える。すでに馬が走り回ったらしい馬場だけが、泥まじりに黒々としている。近衛兵が数人と朱雀将軍は、太子様らしい小さな影に寄り添っている。ひときわ大きいのは白虎将軍だ。乗馬と聞いて、馳せ参じたようだ。
太子様の乗馬の師として、白虎将軍は大張り切りだが、いつも朱雀将軍に茶々を入れられて憮然としている。武勇名高い大男のそんな様を見るのも、面白くて仕方がない。そんな時の朱雀将軍は、まるっきりやんちゃな少年だ。まるで男同士、気のおけない仲間として扱われるのがとても楽しそうだ。陛下も同様で、あけすけな冗談に声をあげて笑われる。
陛下の足が一層早くなった。それでもすいすいと歩かれているだけなのに、こちらは必死で小走りになっている。それが、急に走り出した。馬が嘶く声に驚いて顔を上げると、葦毛が一頭、後足で大きく跳ねている。少し前に、陛下が太子様にと下された馬だ。何に怯えたのか、朱雀将軍が手綱を捕って抑え、太子様の前に出て庇われていた。
「おいおい!こら、どうしたんだ!」
白虎将軍がむんずと馬を押さえ込んでいる。必死に陛下を追って走ると、人だかりの中に朱雀将軍が座り込んでいた。
「どうした?大丈夫か?」
跪いた陛下が、将軍の顔を覗き込まれた。なんと、目尻に涙が滲んでいる!
「おい、馬に踏まれたな。」
手綱を取った白虎将軍が、太子様の小さな肩に手を置いたまま声を上げた。
「折れてるかもしれんぞ?」
陛下がぎょっとしたように顔を上げ、白虎将軍を問い質す。
「折れてるって、足がか!?」
「そうやってよく指を折るんですよ。どら、ちょっと靴をぬいでみろ。」
跪いたまま、陛下は手ずから朱雀将軍の長い軍靴を引き下ろした。膝まである靴を剥くようにしていく。足首のあたりで鋭い悲鳴が上がった。
「いたい!あいたた、チュムチ、これ、折れてるの?まったく冗談じゃない!」
そっと靴をはずし、壊れ物でも扱うように慎重に足袋が外される。真っ白な細い足指が現れ、ちょっとどきりとする。踏まれた跡は指というより足の甲だ。少し盛り上がったようになっているのは、腫れ始めたところだろうか。陛下の指が触れるか触れないかのうちに、また朱雀将軍の悲鳴が響いた。
「ちょ、やめてください!信じられないくらい痛いんだから—」
戦場で鬼神のように敵を叩き斬る姿からは思いもよらない。肩の骨が外れそうになっても陛下の腕を離さない将軍が、涙を滲ませている。そういえば痛みっていうのは、ああいう涙が出るものだった。足先やら頭をぶつけた時なんか、ただ自然に涙が出るっけ—
イモ!あ、将軍、大丈夫!?幼い声がかかる。大丈夫、大丈夫。代わりに野太い声が答えた。ああいう体のはしっこははじめ痛いものだが、添え木をしてじっとしていれば、ひと月くらいで骨がくっつきます。
陛下がそっと腕を回し、朱雀将軍を抱き上げると、そのまま歩き始めた。絹の上着はすっかり泥だらけになっている。
えっ。ええと、どうすればいいんだ。こんなこと、侍従長も教えてくれない。いや、こないだの戦から、そういうことばっかりだ。きょろきょろと辺りを見回し、白虎将軍、太子様、近衛兵を順に目で追う。みなぽかんと口を開け、ただ陛下を見送っていた。
「侍医を連れて来い。」
ようやく命が下った。白虎将軍の声が響いている。イモはお父上に任せて、大丈夫、もう少し馬に乗りましょう。な?
将軍を横抱きにして、ものすごい勢いで歩かれる陛下と方角を分かつ。いつ何時でも誰かが随いていることになっているが、御命だからしょうがない。侍医を探しに走り出し、あっ、と思い出して駆け戻る。将軍の長靴を拾い上げた。あの足先を包んでいた足袋も—。それを握って、改めて走り出す。コムルの医術者でもいいかもしれない。
by kuro-kmd
| 2010-08-26 07:59
| 冬の日