2010年 10月 04日
虎の皮の使者 1
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時間が経ったのでちょっとだけ加筆して再掲しました。
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海が近くなると、風の匂いが気になって仕方がないらしい。風が変わるたび、風上に向かって軽く顎を上げるようにしているスジニに、馬上の太王が微笑んだ。それでも十分に内陸の地だが、山深く育ったスジニにとっては異質な湿り気を含んだ風だ。土も黒く湿り、良質の鉄が採れる山がある。それこそが、太王がこの地に居る理由であった。鉄の産地、さらに遼河の水運と、その先の外海に港をも抱える遼東。
しかもそこは、長年の宿敵、後燕に境を接する要の地でもあった。北に北魏、その西には広大な地がどこまでも広がり、漢の部族が終わらない戦を繰り広げている。
先の大戦で大軍を失った後燕は、すっかりその勢いを潜めていた。澄まして朝貢の遣いを送ったりもしながら、太王は常にこの大国を窺ってきた。中原での戦に大軍を出したのは、火天会に唆された北魏に逆らえなかったからだ。同じ鮮卑族の国として、時には互いを攻めたりもしながら、古くから地を分け並び立ってきた大国が、時を同じくして軋み始めている。千載一遇の機会を、太王が逃すはずはなかった。
「王様。東突厥の部族とお会いになるための外遊だと、そうおっしゃいましたね?」
探るような目でスジニが馬を並べてくる。目だけで聞き返すのを受けて、言葉が続いた。
「安族の首領をやきもきさせるためですか?」
一瞬白い歯が覗いたが、それには答えずに間があいた。
「お前は契丹の先が知りたくはないか。」
はるかに広がる平野には、生まれたときから馬を乗りこなす遊牧の民が住むという。その馬術は驚嘆に値する。誇り高く武術にもすぐれるが、徒党を組まず、ぱらぱらと野に散って馬とともに生きるのだと—。
「そのような一族と兄弟になれるかもしれないのだから、アティラに大きな借りができた。」
声が届いたのか、先導する契丹の首領が、振り向いてかすかに笑ったようだった。
講和が目的の太王は、わずか二百騎の身軽さで国内城を出た。小さな兵站部は数頭の荷馬で済み、騎馬隊は楽し気に疾走した。気の張らない行軍も、結局いつものチュシン騎馬隊の速度になっていたが、鎧姿の一団は和やかで、太王の長剣は侍従が背負っていた。
すでに一行は安族の地をかすめていた。
安族とは遼東を治める部族で、その起源ははっきりしない。前秦の頃からこのあたりに居るらしく、北魏皇帝と後燕王から遼東と帯方の王に任じられたというが、高句麗にとっては甚だ怪しい話だった。帯方は、度々倭や百済の侵入口となる地だが、駐留する兵などおらず、鎮圧するのは常に高句麗だ。今や実質は高句麗の領土のようなものだが、税だけは徴収に来るのである。後燕の印を持った者をどうにかするわけにもいかず、帯方は常にもやもやの元だった。
「大体、おかしいですよ。あんな飛び地に、いくら王として任じられたと言っても、何もしていない輩が穀だけ取り上げていくなんて。」
ゆったりと手綱を捌きながら、スジニの文句は止まらない。真顔で聞いている侍従のジンシクがうんうんと頷いた。
真夏だが、北の地の風はほどよく平野を渡り、鎧姿のスジニの髪を揺らしていた。鎖帷子をつけないので、いつもよりほっそりとして見える。
国内城を出て十日、近衛隊と騎馬隊から選抜した強者には休暇のようなものだ。果てしない草原に何か目印を見つけたらしいアティラが止まった。そのまま契丹兵が一騎、草原を進んでいく。先触れに駆けたのならば、会談場所はもう近いはずだった。
それにしても、落ち合うまでに、アティラの一隊はずいぶん南へ太王を出迎えたことになる。スジニが訝しく思うのも道理だった。安族とやらの鼻先を、高句麗の太王と契丹の首領が仲睦まじく通るのだから。
尋ねても、決して答が返ってこないことをスジニは知っていた。一筋の毛ほどでも確信に満たなければ、太王はけっして言葉にしないのだ。
「王の言葉は取り返しがつかないから厄介だ」
かつてそう言われて以来、スジニは政について、決定的な言葉を求めて問い質すのをやめた。十分察しがつくし、王もそれを分かっている。
今回は、それが逆にスジニの確信になった。安族とやらに、カマをかけておいでだ。さりげなく視線を流して端正な横顔を窺ったが、そこには何も読み取ることはできなかった。ただいつもの、すべて引き受けたとでもいうような、微笑みが薄く浮かんでいた。
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海が近くなると、風の匂いが気になって仕方がないらしい。風が変わるたび、風上に向かって軽く顎を上げるようにしているスジニに、馬上の太王が微笑んだ。それでも十分に内陸の地だが、山深く育ったスジニにとっては異質な湿り気を含んだ風だ。土も黒く湿り、良質の鉄が採れる山がある。それこそが、太王がこの地に居る理由であった。鉄の産地、さらに遼河の水運と、その先の外海に港をも抱える遼東。
しかもそこは、長年の宿敵、後燕に境を接する要の地でもあった。北に北魏、その西には広大な地がどこまでも広がり、漢の部族が終わらない戦を繰り広げている。
先の大戦で大軍を失った後燕は、すっかりその勢いを潜めていた。澄まして朝貢の遣いを送ったりもしながら、太王は常にこの大国を窺ってきた。中原での戦に大軍を出したのは、火天会に唆された北魏に逆らえなかったからだ。同じ鮮卑族の国として、時には互いを攻めたりもしながら、古くから地を分け並び立ってきた大国が、時を同じくして軋み始めている。千載一遇の機会を、太王が逃すはずはなかった。
「王様。東突厥の部族とお会いになるための外遊だと、そうおっしゃいましたね?」
探るような目でスジニが馬を並べてくる。目だけで聞き返すのを受けて、言葉が続いた。
「安族の首領をやきもきさせるためですか?」
一瞬白い歯が覗いたが、それには答えずに間があいた。
「お前は契丹の先が知りたくはないか。」
はるかに広がる平野には、生まれたときから馬を乗りこなす遊牧の民が住むという。その馬術は驚嘆に値する。誇り高く武術にもすぐれるが、徒党を組まず、ぱらぱらと野に散って馬とともに生きるのだと—。
「そのような一族と兄弟になれるかもしれないのだから、アティラに大きな借りができた。」
声が届いたのか、先導する契丹の首領が、振り向いてかすかに笑ったようだった。
講和が目的の太王は、わずか二百騎の身軽さで国内城を出た。小さな兵站部は数頭の荷馬で済み、騎馬隊は楽し気に疾走した。気の張らない行軍も、結局いつものチュシン騎馬隊の速度になっていたが、鎧姿の一団は和やかで、太王の長剣は侍従が背負っていた。
すでに一行は安族の地をかすめていた。
安族とは遼東を治める部族で、その起源ははっきりしない。前秦の頃からこのあたりに居るらしく、北魏皇帝と後燕王から遼東と帯方の王に任じられたというが、高句麗にとっては甚だ怪しい話だった。帯方は、度々倭や百済の侵入口となる地だが、駐留する兵などおらず、鎮圧するのは常に高句麗だ。今や実質は高句麗の領土のようなものだが、税だけは徴収に来るのである。後燕の印を持った者をどうにかするわけにもいかず、帯方は常にもやもやの元だった。
「大体、おかしいですよ。あんな飛び地に、いくら王として任じられたと言っても、何もしていない輩が穀だけ取り上げていくなんて。」
ゆったりと手綱を捌きながら、スジニの文句は止まらない。真顔で聞いている侍従のジンシクがうんうんと頷いた。
真夏だが、北の地の風はほどよく平野を渡り、鎧姿のスジニの髪を揺らしていた。鎖帷子をつけないので、いつもよりほっそりとして見える。
国内城を出て十日、近衛隊と騎馬隊から選抜した強者には休暇のようなものだ。果てしない草原に何か目印を見つけたらしいアティラが止まった。そのまま契丹兵が一騎、草原を進んでいく。先触れに駆けたのならば、会談場所はもう近いはずだった。
それにしても、落ち合うまでに、アティラの一隊はずいぶん南へ太王を出迎えたことになる。スジニが訝しく思うのも道理だった。安族とやらの鼻先を、高句麗の太王と契丹の首領が仲睦まじく通るのだから。
尋ねても、決して答が返ってこないことをスジニは知っていた。一筋の毛ほどでも確信に満たなければ、太王はけっして言葉にしないのだ。
「王の言葉は取り返しがつかないから厄介だ」
かつてそう言われて以来、スジニは政について、決定的な言葉を求めて問い質すのをやめた。十分察しがつくし、王もそれを分かっている。
今回は、それが逆にスジニの確信になった。安族とやらに、カマをかけておいでだ。さりげなく視線を流して端正な横顔を窺ったが、そこには何も読み取ることはできなかった。ただいつもの、すべて引き受けたとでもいうような、微笑みが薄く浮かんでいた。
by kuro-kmd
| 2010-10-04 11:32
| 遼東にて